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京都地方裁判所 昭和60年(ワ)1287号 判決

京都府久世郡久御山町大字下津屋小字下の浜代七番地

原告

三和化工株式会社

右代表者代表取締役

吉田巌

右訴訟代理人弁護士

山本眞養

右訴訟復代理人弁護士

谷口忠武

京都府城陽市寺田尼塚一二番地一〇

被告

伊藤博夫

右訴訟代理人弁護士

金子武嗣

森下弘

山下潔

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金六六八〇万円及びこれに対する昭和六〇年六月二六日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和四〇年一〇月一日に設立されたプラスチックの成型、加工、製造販売等を目的とする株式会社である。

2  被告は、京都大学工学部原子化学教室の助手としてポリエチレン発泡体技術の開発研究に従事していたところ、昭和四四年一二月に原告会社にその専門技術を買われて入社し、昭和四五年四月に取締役に就任し、昭和五九年三月二〇日に退任、退職したが、その間技術開発部長を経て、昭和五七年八月海外事業及び技術担当として対中国技術輸出プロジェクトチームリーダーに、昭和五八年八月には研究開発本部技術移転担当に就任し、一貫して技術輸出業務の責任者の地位に在った。

3(一)  原告は、永和化成工業株式会社(代表者は原告代表者と同じ。以下「永和化成」という。)が有する特許権、すなわち、ポリオレフィンに発泡剤、発泡助剤及び架橋剤を配合した発泡性配合物を金型に充填し、一定時間加圧下に加熱し、発泡剤の四〇パーセントないし八五パーセントが未分解で残存している状態で高温熱時に除圧して金型より取り出して中間一時発泡体を得(以下「第一工程」という。)、この中間一次発泡体を常圧下で加熱して未分解の残存発泡剤を発泡させて更に低密度の発泡体を得る(以下、「第二工程」という。)というもの(ポリオレフィン気泡体の製造方法、登録番号六二三八八八号。なお、開発には被告が中心となって関与した。以下「本件特許」という。)について、専用実施権の供与を受け、加圧ニーダーの採用、第二工程での発泡、熟成冷却工程におけるスチームジャケット式発泡機(三和SJ発泡機)の開発等周辺技術も含めて開発した生産設備及び技術ノウハウによる「SJ法四〇倍発泡ポリエチレン生産技術」(以下「本件技術」といい、特にノウハウについては「本件ノウハウ」ということがある。)を有していた。

(二)  本件技術の概要は、概ね次のとおりである。

(1) 仕込樹脂(PE)と各種配合剤(発泡剤、発泡助剤、架橋剤等)を計量の上、加圧ニーダーを用いて混合室温度約一一〇度で約一五分間、樹脂及び配合剤の混練りを行い、均一に捏和された餅状のコンパウンドとし、ミキシングロールにより厚さ約四〇ミリメートルのシートとする。

(2) このシートを所定仕込量約六キログラムにカットし、プレス熱盤上において金型に入れて加圧加熱(約一〇〇キログラム/平方メートル、温度約一五〇度、約八〇分間)して架橋剤及び一五パーセントないし六〇パーセントの発泡剤を分解させ、その後、除圧して仕込樹脂容量の約四倍ないし一〇倍の一次発泡体を得る。

(3) 引き続いて、それを三和SJ発泡機に入れて常圧下で約一六〇度で約三〇分加熱し、次いで冷却することにより製品を得る。

(三)  本件技術は、昭和五九年当時、日本国内では原告のみが有していたもので、技術開発に相当の投資を要し、原告は本件技術の生産設備とともに樹脂と配合剤の配合率、設備の運転条件等の本件技術ノウハウの有償供与も行っていたものであり、本件ノウハウはいわゆる秘密ノウハウとしての管理がなされていたものである。なお、原告では顧客の便宜に応じて「四〇倍発泡法」と称しているが、SJ法による二段階発泡で高発泡倍率の製品が可能となったもので、四五倍発泡の製品も発泡倍率の違いのみで全く同様の設備技術で生産することができる。

(四)  原告は、昭和五八年三月ころから中華人民共和国の中国機械進出口公司山東省分公司及び同ハルピン分公司(以下、順次「山東省」、「ハルピン」といい、両者をあわせて「各分公司」という。)との間で、本件技術及びその生産設備一式の輸出交渉を行っていた。

4  被告の責任原因

(一) 忠実義務ないし善管注意義務違反

被告は、原告に在職中、取締役として本件技術及びノウハウを他に開示してはならない忠実義務を負い、また、本件技術にかかわるノウハウの開発責任者としてノウハウの秘密を保持すべき善管注意義務を負っていたところ、原告の前記各分公司との輸出交渉に多大の支障を

来すことを知りながら、原告に在職中の昭和五九年一月ころから、右忠実義務に違反して吉井鉄工株式会社(以下、一吉井鉄工」という。)に原告の技術仕様書、デー夕等を無断で渡すなどして本件技術及びノゥハウを開示した。

(二) 信義則違反

仮に、被告の吉井鉄工に対する右の開示行為が原告会社を退任、退社した後であったとしても、被告は、本件技術開発に関与した従業員及び取締役として職務上知り得た本件技術を他社に開示しない信義則上の義務を負っていたのに、これに違背したものである。

5  因果関係

原告の各公司に対する前記輸出交渉は、山東省については昭和五八年一一月ころには価格面での調整を残すのみであり、ハルピンについては同年三月ころからの交渉を踏まえて原告の提示した条件に対して同年一二月にハルピン側が来日して原告の工場を見学する予定であり、いずれも契約成立直前であった。

ところが、被告が本件技術及びそのノウハウを吉井鉄工に開示したため、吉井鉄工はそれまで有していなかった四〇倍発泡ポリエチレン生産技術について、各分公司と輸出交渉をすることが可能になり、原告が交渉中の本件技術とほぼ同内容の生産技術及び生産プラントについて原告が提示していた価格より低い価格で交渉を進め、山東省とは昭和五九年三月一六日に一億四〇〇〇万円で、ハルピンとは同年五月一六日に一億三四三二万円(五八万四〇〇〇ドル)で輸出契約を締結した。その結果、原告の各分公司に対する本件技術及び生産設備プラントの輸出は不可能となった。

6  損害

(一) 原告は予定していた本件技術及び生産プラントの輸出により見込んでいた次の利益を失った。すなわち、一件当たりにつき、技術料として輸入側課税額を控除後の二六四〇万円、生産プラント輸出利益として一〇〇〇万円の計三六四〇万円から諸経費三〇〇万円を差し引いた、少なくとも三三四〇万円を山東省とハルピンの各分公司の二件につき失い、計六六八〇万円の損害を被った。

(二) また、被告の前記行為により、軌道に乗りつつあった原告の中国向け技術移転事業は回復し難い支障が生じ、多大の精神的苦痛(無形損害)を受けたものであって、その慰謝料としては一〇〇〇万円が相当である。

よって、原告は、被告に対し、雇用契約及び委任契約における善管注意義務及び忠実義務違反の債務不履行又は信義則上の秘密保持義務違反による損害賠償請求権に基づき、被った損害七六八〇万円の内六六八〇万円及び右各不法行為の後(訴状送達の日の翌日)である昭和六〇年六月二六日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2の事実は認める。

2  同3(一)の事実中、永和化成が本件特許権を有していること及びその内容、原告が本件特許の専用実施権及び本件技術を有していることは認め、その余は否認する。

3  同3(二)の事実は認め、(三)の事実は争う。

4  同3(四)の事実は認める。

5  同4(一)、(二)の各事実は否認する。

6  同5の事実中、吉井鉄工と各分公司の契約の成立は認めるが、その余は否認する。但し、昭和五九年三月一六日の吉井鉄工と山東省との契約は四〇倍発泡技術輸出についての仮契約(以下「本件仮契約」という)であり、吉井鉄工は後にこれを合意解除し、同年九月二九日に右とは異なる四五倍発泡技術につき本契約をしており、ハルピンとの契約は四五倍発泡技術の輸出についてである。

7  同6(一)、(二)の事実はいずれも否認する。

三  被告の主張

1  原告の有する保護法益について

(一) 本件特許権の範囲及び本件技術と吉井鉄工が契約の目的とした技術について

本件特許として保護されているのは、二段階発泡技術の全般ではなく、その一部にすぎない。すなわち、右特許の申請は、当初、右の一時発泡体生成後に未分解で残存する発泡剤の割合(未分解発泡率)に限定はなかったので、特許庁から拒絶理由が通知され、これに対して提出した意見書において第一工程の未分解発泡剤率を四〇パーセントないし八五パーセントと限定することによって、特許として認められたものである。

したがって、同様の二段階発泡技術であっても第一工程における未分解発泡剤率が四〇パーセント未満及び八五パーセントを越える技術は本件特許の範囲外にある。

吉井鉄工の二段階発泡技術は第一工程の発泡剤未分解率は八七・五パーセント前後であり、本件特許の範囲には含まれず、原告の技術とは異なるものでる。

(二) 本件ノウハウについて

原告が本件技術のノウハウとして主張する本件特許の周辺技術としてのバッチ式ポリオレフィン発泡プロセスにおいて、樹脂溶融と配合混練過程での加圧ニーダーの採用、第二工程での発泡、熟成冷却工程におけるスチームジャケット式発泡機の開発採用は、いずれも昭和五八年当時公知の技術であって、汎用の機器の組み合せによって実現できるか容易に推考できるものであり、いわゆる秘密ノウハウには値しないものである。

2  原告と山東省の契約経緯

昭和五八年一二月の段階で、原告と山東省の交渉は価格面及び本件技術実施、製品販売地域の限定についてのテリトリー問題で決裂状態にあり、五九年初頭当時ハルピンとも具体的な交渉には入っていなかった。

第三  証拠

本件記録中の書証目録及び証人等目録の記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  請求原因1、2、3(二)の各事実は当事者間に争いがない。

二  原告の有した技術内容とその秘密性について

1  本件特許と本件技術の範囲について

前記争いのない事実に成立に争いのない甲第三、第一〇号証、乙第一、第五ないし第九号証、第二三号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認られめる甲第八号証、証人村上文男の証言、被告本人尋問の結果によれば、以下の事実が認められる。

発泡を二段階に分けて低密度の製品を生成する方法は、ゴム、スポンジまたポリオレフィンにおいても採用されており、昭和五九年以前からの公知の技法である。本件特許は、一定時間加圧下に加熱し、発泡剤の四〇パーセントから八五パーセントが未分解で残存している状態で高温熱時に除圧して金型より取り出して中間一時発泡体を得(第一工程)、この中間発泡体を常圧下で加熱して未分解の残存発泡剤を発泡させて更に低密度の発泡体を得る(第二工程)というものであり(この点は、当事者間に争いがない。)、昭和四七年二月二七日に永和化成によって出願されたが、当初一次発泡体の未分解発泡剤率が限定されていなかったため、拒絶理由が通知され、その後前記のように一次発泡体の未分解発泡剤率を限定することによって、昭和四九年九月二五日に特許出願公告がなされたもので、本件特許の特徴は、二段階発泡そのもの若しくは二次発泡を常温で行うことではなく、一次発泡体の未分解発泡剤率の点にある。

本件技術は昭和五八年当時、日本国内では原告のみが有するものであったが、二段階に分けて発泡させる技術そのものは公知のものであり、吉井鉄工の二段階発泡技術は第一工程の発泡剤未分解率は八七・五パーセント前後であって、本件特許の範囲には含まれず、したがって、原理は同一であっても本件技術とは別個のものである。

2  加圧ニーダー、SJ発泡機、運転条件等について

前出甲第八号証、乙第八号証、証人村上文男、同金礪盛次の各証言、被告本人尋問の結果によれば、以下の事実が認められる。

加圧ニーダーは二〇年程前から樹脂等の原料を混練するのに使用されており、ポリエチレン樹脂の原料の混練に対する使用は特に原告の独自の発想によるものとはいえず、なんら秘密性、非公知性を有するものではない。また、スチームジャケット法はパイプ中を水蒸気を通すことによって加熱する方法であるが、スポンジゴムの製造等で二〇年以上前から行われていた加硫缶方式と原理的には同様のものである。原告のSJ発泡機は市売品ではなく、原告による角形パイプの採用等、本件目的に合わせた相当の改良が加えられ、より高性能になり、しかも効率もよくなり、原告はこのSJ発泡機の開発採用により、昭和五一年ころからそれまでの塩浴法から漸次SJ発泡機を採用した本件技術に転換して良質の製品を生産できるようになったが、SJ発泡機は基本的にはスチームジャケット方式の応用であって、原告の独自の発明ではない。また、原告はSJ発泡機について特許の出願はしていない。(なお、原告が実用新案の出願をしたことについてはこれを認めるに足りる証拠はない。)

3  吉井鉄工の研究実績について

成立に争いのない甲第九号証、第一六号証、乙第一二号証、証人清水啓司の証言により真正に成立したと認められる乙第一三号証、証人清水啓司の証言によれば、以下の事実が認められる。

吉井鉄工は、ポリエチレンを原料とするインフレーションフィルム製造装置その他プラスチック製造装置の販売を業としており、対中国輸出については昭和五六年の契約成立以来相当の実績があり、昭和六〇年ころは対中国の年間売上が三、四億円程度であった。吉井鉄工は昭和五七年ころから発泡シート製造装置等の技術開発のために研究を開始していた。

4  まとめ

1ないし3の各事実によれば、吉井鉄工の二段階発泡技術は、本件特許の範囲には属さず、加圧ニーダーは以前から樹脂混練に使用されており、SJ発泡機についても原告の改良が取り入れられているものの、原理的には以前から存するものであって、同種の機械を推考ないし資料により同様の性能を有する機械を作成することは容易であると思料され、同種の技術の研究を開始していた吉井鉄工が資料により、二段階発泡による発泡ポリエチレン生産技術を輸出することは技術的に可能と判断したことに不自然さはなく、また、運転条件等も原料の配合及び計算上ある程度決定されており、その他の細かい条件は設備を作動させて習得しうるものであって、原告の本件技術及び本件ノウハウは部外者に秘匿管理されている秘密ノウハウとしての評価は到底できないと判断するのが相当であり、また、他に原告において本件技術が秘密ノウハウとして厳重な管理がなされていたと認めるに足りる証拠はない。なお、成立に争いがない甲第七号証の三によれば、原告と中国との発泡ポリエチレン生産技術契約書には本件技術を他に漏らしてはならない旨の条項があることが認められるが、証人出口努の証言及び被告本人尋問の結果によれば、右条項は、原告が対中国向けの本件技術の輸出に関し、中国の各省ごとの契約を基本的方針としているため定められたものであると認められるのであってみれば、このことから直ちに本件技術が日本国内でも同様の秘密管理下にあるものと推認することができないのはいうまでもない。

三  被告の責任原因の有無

1  被告の吉井鉄工に対する開示行為の有無について

(一)  吉井鉄工の山東省との仮契約について

前記認定した事実に、前掲甲第七号証の三、成立に争いのない甲第五号証の二、三、第七号証の二、証人清水啓司の証言により真正に成立したと認められる乙第一一号証の一、二、証人金礪盛次、同村上文男及び同清水啓司の各証言によれば、以下の事実が認められる。

本件技術は昭和五九年初頭当時、日本国内においては原告しか有しておらず、吉井鉄工は同年三月一六日に山東省と締結した四〇倍発泡生産技術に関する本件仮契約当時にはその技術を有していなかった。吉井鉄工が山東省と契約した設備構成の内容は、ほぼ原告の本件技術と同様のものであって、原告が昭和五七年七月二一日に中国包装進出口公司江蘇分公司(以下「常州」という)と交わした契約書(甲第七号証の二)は、技術料を除けば(常州のものは技術料の記載はないが、同額の三三〇〇万円である)機械類及びスペア部品の種類、量、価格まで全く同一であり、また、吉井鉄工と山東省との技術輸出契約書(清水作成のひな型、甲第五号証の三)の内容、配列は、原告と常州との技術輸出契約書(甲第七号証の三)の内容、配列に類似している。

また、吉井鉄工は山東省との本件仮契約当時は本件技術を有していないのに技術指導価格を契約書に記載してある。契約書中ニーダーの「PE-special」は特に意味のない符丁であるのに吉井鉄工の見積書(甲第五号証の二)にも同様の記載がある。

以上の事実に照らすと、本件仮契約は、原告が既に締結していた常州等との技術概要、契約書類を基に行われたものと推認することができ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(二)  吉井鉄工の交渉経過について

一方、成立に争いのない乙第四号証の一ないし二〇、証人清水啓司の証言により真正に成立したと認められる甲第五号証の四の一、乙第一一号証の一、二、被告本人尋問の結果により真正に成立したと認められる乙第一八号証の一及び被告本人尋問の結果によれば、吉井鉄工と山東省との契約経緯について以下の事実が認められる。

吉井鉄工は、昭和五八年一〇月ころ、折から中国に滞在中の同会社の担当者に対し、山東省塑料工業公司、経済委員会から発泡装置についての照会を受けた。そこで吉井鉄工は、その後、山東省の代理人のような地位にあり、中国関係筋にも発言力のある孔子から原告の技術概要、見積り、契約書等について資料の提供を受けて検討したところ、資料記載の機器は吉井鉄工と同業のメーカーの製造に係るものであり、吉井鉄工においても販売可能であると判断し、輸出を検討した。その後昭和五九年一月ころ、吉井鉄工は孔子から右資料に基づき書類を作成することを依頼され、同年三月に山東省の済南において吉井鉄工と取引関係のある工場を含めて発泡製品の塑料四厂と商談を行ったが、山東省は予算執行の関係で契約を急いでおり、予算の存続を図るために同月一五日付けで本件仮契約を締結した。しかし、右の契約書には通常の契約書には見られない契約の発効に関する条項があり、同年五月一六日に合意の上解約され、新たに同年九月二九日にハルピンとの契約と同様の四五倍発泡技術について輸出契約を締結するに至った。ところで、被告は右の合意解約には立ち合っていないが、同日に行われたハルピンとの契約には重要部分に関与し、同年九月の山東省との契約には立ち会っている。

以上の事実は、前記認定のとおり、吉井鉄工は製品が異なるとはいえ、同一原料のポリエチレン製品の製造機器の中国輸出に相当の実績を有していたこと、発泡ポリエチレンについての研究を開始していたこと、山東省と原告の本件技術に関する交渉は価格及びテリトリー問題で次項(二)以下のように妥結不可能なほどの困難な状況にあったこと、「PE」は原告独自の設備の符丁ではなく、ポリエチレン原料を指すものとしてこれが付されても必ずしも不思議とはいえないこと、吉井鉄工が本件技術等の輸入について中国側に発言力を有していた孔子から資料の提示を受けたことは十分あり得ることにも符合するところである。

(二)  原告と山東省の交渉状況について

前記認定に成立に争いのない甲第一九号証の一、二、第二〇ないし第二二号証、証人村上文男の証言及び被告本人尋問の結果によれば、以下の事実が認められる。

被告は、原告の責任者として昭和五八年一一月二二日から六日間にわたり山東省済南市に出張して原告と山東省との本件技術輸出契約につき交渉に当たった。しかし、原告のを代理人として交渉に当たっている明和産業株式会社(以下「明和産業」という。)が原告の代表者吉田巌(以下「吉田」という。)の指示を受けて呈示した額は一億六九六〇万円(内技術五〇〇〇万円)であり、その後、吉田が了解した最終案も一億五四八〇万円(内技術料四二〇〇万円)にとどまった。これに対し、山東省側は一億二〇〇〇万円を予算額であるとして主張し、先ず、価格について大幅な対立が生じた。山東省側も成約を達すべく交渉継続を求めたが、吉田の強硬な指示(同人は、いずれ山東省側が譲歩してくるとの楽観的な見通しを立てていた)のため、被告及び明和産業は交渉打ち切りを決意した。しかし、山東省側の交渉意思は 固く、被告らの帰国前夜には両者提示の平均値である一億三七四〇万円について内々に打診を行い、これが拒絶されると、更に、帰国当日出発間際に一億三四〇〇万円を呈示したが、被告らはこれも吉田の意に沿わないため拒絶せざるをえなかった。

原告の本件技術輸出交渉については、山東省、ハルピンのいずれにおいても、価格とテリトリーが重要な問題となっており、先ず価格の点について各公司と相当厳しいやり取りが行われ、双方とも強硬な姿勢を崩さず、右のとおり、妥結の見通しの立たない暗礁に乗り上げていた。しかし、吉田は、中国が本件技術を輸入するには原告からするほかないので、いくら強気の交渉を行っても中国側は折れ、原告の利益優先の契約が成立しうると判断していた。しかし、吉田の思惑とは異なり、昭和五八年一一月の山東省との交渉以来、山東省から一度来日要請の招待状を送るようにとの依頼があったのみで、山東省側の来日はおろか、契約交渉に関する打診は一切なく、このため原告が積極的に交渉を持ちかける機会もないまま推移し、前述の吉井鉄工と山東省との仮契約に至った。

(三)  吉井鉄工と被告の関係について

前記認定した事実に、成立に争いのない乙第二二号証の一ないし一二(甲第二五号証と同じもの)、第二五号証、第三二ないし第三五号証、証人清水啓司の証言及び被告本人尋問の結果によれば、以下の事実が認められる。

(1) 被告は吉田の命を受け、昭和五八年一一月に山東省に出張し、前記契約交渉に当たったのであるが、帰国後は山東省との交渉には関与せず、昭和五九年一月ころから吉田の営利を専らとし、技術開発の持つ公益性などを全く顧慮しない経営方針や、技術者として二〇年間も同人に忠実に仕えてきた被告を疎んじる姿勢に多大の失望を抱くようになり、後の見通しのないまま、退職を決意した。そこで、被告は、同年二月二日、吉田に退職願を提出したが受理されず、その後数度の退職願の提出、他の取締役との面談を経て、ようやく同年三月一六日に内容証明郵便をもってこれを提出して受理され、同月二〇日付で取締役退任、退社となった。

その間、被告は原告に出社して勤務を続け、昭和五九年二月二四日から休暇を取った後、退職後の事務の引継ぎ等退職に伴う事務処理を滞りなく行ったものの、当面の生活設計も立たず、同年四月一六日に失業保険給付の申請を行った。

(2) また、吉井鉄工の中国貿易担当者であった清水啓司(以下「清水」という。)は証人として、被告との接触の経緯について、「昭和五八年一一月ころ、孔子を通じて四〇倍発泡技術について引合いを受けた際に、三和化工に連絡を取ってみてくれといわれ、同社に電話をしたが、本件技術輸出担当者であった被告ににべもなく断られ、不快な印象を持った。吉井鉄工本社の指示により、中国側の要請に従ってその後本件仮契約を締結したが、これは専ら中国側の予算の継続のためであり、技術交流等契約内容の具体的説明はしてない。当時、吉井鉄工は発泡ポリエチレンの技術を有しておらず、具体的な技術の調達先も決っていなかった。その後中国筋から、被告は信頼のできる人物で発泡技術については大家であることや被告が原告を退社したことを聞き、昭和五九年四月二〇日ころ再び被告に電話をして協力を求めた。その間、被告と接触したことは一度もなく、原告の本件技術の契約書、技術概要も受け取ったことはない。」などと述べ、被告が原告に在職中、吉井鉄工に対して本件技術ないし本件ノウハウを開示したことはないことを明らかにしている。もっとも、右証言は、原告への電話に至る経緯(明和産業を介していない点)、目的があいまいであり、また、本件仮契約の内容が従前原告との交渉で中国側が求めていたのと異なる上、吉井鉄工には仮契約とはいえ技術調達のあてがなかったのであり、履行に多大の疑問を残すものである等通常の取引に照らすと疑問がないわけではない。

しかし、中国に対して輸出を拡大しようとしていた吉井鉄工が、見切り発車にすぎる等の非難のあることは別として、本件技術の資料により、技術的に可能であると判断したことは、中国に新たな市場開拓を求める企業として、考えられないことではない。また、一年近く本件技術を導入しようと原告と交渉してきた中国側が厳しい予算制約の下で価格、テリトリーいずれの問題も解決できず、焦慮の結果取り合えず予算の継続を図ったとみられる事情のある本件では、右のような仮契約が行われること及びその後の合意解約の経緯もそれなりに肯認し得るところであり、右清水証言は信用するに足りるものである。

また、前掲各証拠によれば、山東省と原告とは昭和五九年からは交渉はあまりしていないことが認められるが、被告本人尋問の結果により認められる、個別の公司であっても各種の情報についてはかなりの融通性がある中国側の事情に照らすと、既に取引関係の成立していた常州との設備のメインテナンス等における原告との交渉において、本件技術及びノウハウの開発者として名が知れ、高い評価を得ていた被告が原告を退職したとの情報が山東省に伝わることは十分考え得ることであって、被告の退職後間もなく清水が同人の証言するような経緯で再び被告と接触していったとしても不自然なものとはいいがたく、このことをもって被告の在職中の吉井鉄工との接触を窺わせる証拠にはなしえない。

(四)  前記認定に前掲甲第五号証の一、二、成立に争いのない乙第二四号証、証人清水啓司の証言及び被告本人尋問の結果によれば、被告は原告を退職後、吉井鉄工の誘いに加えて、ハルピンとの交渉で技術者として高い評価を与えられたことなどから、自らの開発した技術を吉井鉄工のいわば軒先を借りるのではなく、自身で輸出していこうとの思いから、会社設立を思い立ち、昭和五九年七月一六日自らが代表取締役に就任して、株式会社セルテクノ(以下「セルテクノ」という。)を設立したこと、セルテクノの技術概要等の書類は原告の使用している書類と生産量、製品の仕様等の数値において類似しているが、そもそも本件技術は及びノウハウの開発は被告の力によるところが大であり、原告の右書類も被告が在任中に作成したものであって、類似しているのは当然であること、また、右セル・テクノの概要が作成されたのは昭和五九年六月以降であることが認められる。

右事実によれば、被告が在任中に吉井鉄工に原告の本件技術とノウハウを開示したとの原告の主張は、一層その根拠のないことが明らかであるというべきである。

2  信義則違反について

吉井鉄工とハルピンとの昭和五九年五月一六日付、山東省との同年九月二九日付の各輸出契約(いずれも四五倍発泡技術)の締結に被告が関与したことは当事者間に争いがない。ところで、成立に争いのない乙第三五号証、証人金礪盛次及び被告本人尋問の結果によれば、被告の退職当時、原告の就業規則には、取締役ないし従業員が在職中知り得た技術秘密やノウハウについて、退職後の守秘義務を定める一般的規定はなかったことが認められ、また、被告に対し個別的にかかる守秘義務を負わせる特約の存在を認める証拠もない。そうすると、被告が原告に在職中自らの研究により開発し、修得した前記発泡体に関する技術、思想は、被告固有の人格的財産というべきものであるから、原告を退職後これをどのように使用するかは全く被告の自由に委ねられているものといわなければならず、在職中本件技術開発の中心的地位にあり、右開発に深く関与していたことや原告の責任者として対中国貿易交渉に関与したことなどをもって、退職、退任後も当然に信義則上守秘義務を負うとする原告の主張が理由のない、失当なものであることは明らかというべきである。

したがって、被告の前記吉井鉄工とハルピン、山東省との契約締結への関与は原告との関係において違法、不当であるということは困難である。

四  以上の認定、判断を総合すれば、被告が、原告に在任中に吉井鉄工に本件ノウハウを開示したと認めることはできず、また、原告の本件技術も秘密ノウハウと評価すべきものではないし、更に、退職後の行動も何ら原告に対する守秘義務違反を構成するものでないから、これらの点に関する主張はいずれも採用に由ないものというべきである。

五  よって、その余について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がないから失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小林克已 裁判官 藤村啓 裁判官 岡野典章)

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